【エッセー】『長安から北京へ』司馬遼太郎

基本情報

作者  司馬遼太郎

出版  1979年

出版社 中央公論社

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目次

  • 万暦帝の地下宮殿で
  • 延安往還
  • 庶民の記憶
  • 孔丘の首
  • 洛陽の穴
  • 琉璃廠の街角で
  • 北京の桐の花
  • 伝国の書物
  • 北京の人々
  • あとがき

内容

1975年、司馬遼太郎が日本作家代表団(団長井上靖)の一員として中国に招かれ、21日間にわたって中国を見学旅行した話。

印象的な場面

(明の万暦帝の時代)、中国の人口は一億数千万だったという(そのころの日本は、二千万余だったかと思える)」(p25)

「『日本人を、けものだと思っていました』たしかに、そういわれてみても、誰も抗弁はできないであろう。十五年戦争の末期には、とくにひどかった。厳氏が北京から延安へ徒歩で行ったのは、繰りかえすようだが、四二年である。その前年の四一年からこの年にかけて、岡村寧次大将の命令により、八路軍の潜在勢力はその影響下の地域住民にありとし、それを断つために住民をふくめたみな殺し作戦をやった。『三光政策』とよばれた。このことは戦争のことであり、日本とアジアの関係史においてはこのことは永遠に記憶されねばならない。」(p30)

「(空港の北京の文字が毛沢東の書風であったことに対して)公けに表示する文字は水のように無個性であるほうが飽きられなくていいと思うし、傾斜した美というのは、鑑賞者の熱狂的支持を生むかわりに、過半から拒絶されるという名誉を元来のものとしてもっている。」(p70)

「いまの中国は、はるかな紀元前からつづいているこの文明圏にあって、そして紀元前から絶えまなく飢餓がつづいてきた政治の歴史の中にあって、最初に全人民を食わせることができた国家である。この一点一つでも驚嘆すべきだし、さらにいえばこの点から一つからすべてのことを類推しても、大きく誤るということはない。」(p78)

「よくいわれることだが、中国人はひとたび人を信用すればあくまでも信じぬくという。自分が信じている人の紹介状をもってくれば頭からこれを信じ、自分の暮らし以上の接待をするなどともいわれる。」(p130)

「鉄の使用ほど、人間の精神と社会を、それ以前にくらべて激しく変えてしまったものはないように思える。農業生産があがるために社会がかわり、また私有への執着が強くなり、さらには好奇心が増大して、形而下的な好奇心が社会に充満する一方、それが変質して形而上的な好奇心を生み、思想や学問を持つようになった。鉄器使用がはじまる以前の石器や木器による小生産の時代は、人間は欲望もすくなく、従って好奇心も寡少で、じつにのんきでお人好しの世の中であったろうと思える。」(p141)

「中国の内政問題にとって―ひいては外政に関連するところの―大きな問題は少数民族のことではないかと思う」(p199)

感想

批林批孔時代の最中。廖承志が登場し、いくつか描写が出てくるが、感傷性を全く出さない、捨て去っているという評価があった。一流の人間、戦う人間というのはおおよそこのセンチメンタリズムと無縁の人が多い気がする。つまり、センチメンタルでは何も為せないのではなかろうか。最後に唯一面会した政治家が四人組の姚文元だったのが面白い。

当時の中国の教育として、日本人を憎んではいけない、悪いのは日本軍国主義であって日本人ではない。殺人や強姦を犯した兵隊も恨んではいけない戦い続けると心がすさむゆえに、職業軍人も恨んではいけない、彼らはそれが正しいと教育を受けたからだという趣旨のことが本文で記載されていた。作者自身は中国で石を投げられても仕方がないと考えていたが、全くそのような目にあわなかったことを様々な感情をこめ記述している。

作者自身は中国が好きと明言しており色々なことを評価する一方、「ばかばかしく思った」「子どもっぽい」など親愛の情から変えたほうがいいと思うことはしっかり述べている。